昭和40年08月05日 朝の御理解



 させて頂く修行はささやかでも、そのささやかな修行が天地に繋がる様な、神様にお喜び頂けるような修行でありたいと私は思う。どうでしょう皆さんがどんな人の真似のできんような修行をなさっておっても、ね。人が目を見張る様な信心をしておる様にみえておりましてもそれが私自分一家、そう言う様な小さい願いの事のための、修行であるならば、それはその値打ちというものは、大変小さいものになると私は思うんです。
 けれどもそれが、ほんとにささやかな修行でありましても、それが大きな願いのための修行であり、それが天地の親神様のお喜び頂けるような、信心につながる為の修行であるなら、それこそさせて頂いておる修行はささやかでも、その信心は偉大な信心と言わなければならんと私は思う。どうでしょう皆さんがなさっておられる修行、皆さんがなら朝参りなら朝参りお日参りならお日参りと。
 そのお日参りの修行が朝参りの修行が、どう言う様な事に繋がっての修行でしょうか。思うてみなければいけませんね。昨日おとといで御座いましたですかね、朝の御祈念に今度御造営になりますところの、正面の正面の塀になる所。是がどういう様な塀を作ったなら良かろうかと。まあ皆がまあ言わば差し当った事ではないけれども、どうでも作らんならんが、あっちこっちに良い塀があるならば見に行って、そしてなかなか塀を作ると言うても、まあ端た金で出来る事では御座いませんのですから。
 そりゃまあお広前の御造営がすんだその後に、塀を作らなきゃならんだろうが、どういう塀を作ったら良いかというのが、まあ関係者一同の心の中に、練っておる一つの問題であった。様々なご造営の事についての、いうならば信心の基礎が、この事によって出来るんだなと。神様はそのことを願っておられるんだな、と言った様な意味合いにおいてです、はぁこれでいわゆる信心の基礎作りになる、と言う様なその問題が。
 そういう信心にまで進んでいくと言う様なおかげを頂いて、是から出来るのが本当の基礎である、是から出来るのが本当の、御造営と言った様な感じの事であった、昨日おとといが。その日の朝の御祈念に、もう御造営に対してからのことを色々と頂くんです、それも特にそ、塀の事についてはですね、何と言うかねまあ私今まで聞いた事も見た事も、まだそういう感じのものを見たことのないような、塀なんですね。
 ああ皆さんご承知のように、これが長いでしょ入り口が。それが大体この通りに面して塀がこういうふうに、一直線に出来ることばっかり考えてたんです。ところがですね、こうそのすり鉢の底のような感じに出来るんですねこう。頂いた感じを書かせて頂いておりますけれど、なかなか私は絵が下手で、ほんとのことは書けませんけれど。「どこに書いたじゃろかの」「こっち」(探しておられる)
 これがそのあの私が頂いた感じのその、素晴らしさというのはもう要所要所になる所、特にこう印象的に頂いて、しかも天然色に頂くんですね。もうまるっきり吸い込まれる様な感じなんです。もうとにかく用がなくここの周りをこう通っておってもあの、ちょっとこういっぺん中に入ってみようかっちいう気のする様な感じのご門なんです。もうそれからその塀がですね、それをまあそういうふうに頂いておるんですが。
 丁度お広前と長い廊下の中に、このお広前よりちょっと広いかもしれませんね、もうちょと長い丁度中庭が出来ます。そこに白砂を敷いてそこに石庭を、が出来るはずです、石の庭ですね。そしてそのことを私、あのう今日総代さん方が、石見に行かれるんです。それけん思いよりましたらね「生神金光大神天地金の神一心に願えおかげは和賀心にあり」というお庭が出来るらしいですね、その石庭に。
 はぁ真ん中にドンと座って御座るとが天地金の神様。一番初めにこうやや小さく、控えめに書いてあるのが座っておるのが、生神金光大神。中にドンと座って御座るとが天地金の神。こちらに万のいわゆる氏子達一同のですね、小さい石がこうそれに配置されると、言った様な(      録音が悪い     )、天地書付、いわゆる金光教の信心の、中心になるもの。ね、
 もうこの事だけを心に掛けさせて頂いておけば、おかげが受けられるというほどしの、いわゆる天地書付がです、言わば私どもが、お広前がここにこうあるならば、それを左手にこう見たその庭が、石の庭が私想像してみるんですね。しかもその石の庭がです、天地書付そのものの、を、思わなければおられないようないわゆる仕組みになっておると。様々ないわゆるあっちこっちにも、いろんな石庭、庭などがありますけれども。
 それがやっぱり一つのそういうポイントになるような、ひとつの題なら題をもってその石が置かれてあると言う事で御座いますね。例えば心なら心という字を、配してその石が置かれてあるとか、ね、真ん中が仁王様なら、こちらが何様と言った様な、その仏教の中では、そう言う様な感じで置いてあるという話ですがです。椛目の場合はね天地書付がそのまま、御広前の右手に出来る、大きな石庭になる感じですね。
 昨夜皆さん帰られるのを、表まで長男と二人で送ってから、帰られた後に私必ずその御祈念をさせてもらうんです外で。そしていわゆる天地に向かってお縋りをするんです。いっぱいあの夜空を眺めさせて頂きながら、ほんの暫くではあるけれども、祈念をさせてもらう。私がそのことを願わせて頂いて、ふっと目を開けた瞬間に、私の目の前を流れ星がすうっとこう流れるんです。それは私の今の願いを神様がっとこう、天地がうなずいて下さったような、合点してくださったような、感じなのですね。
 長男にあそこ立ってから、暫く話させてもらった。二、三日前だった「天体地体の神秘性について」という御理解を頂いたもんね。私達いち氏子と言う様なものは、それはそれはもうほんとに(  )の、それこそ浜の真砂の一粒にも足りないような、私共であるということ。いわゆるここはあれ、そういう言葉で言うならば我無力というか、ね、もうそれこそ儚い儚い、ね、数で言うならばです長う生きた所で言うなら百年。
 ところが今の流れ星はです何千年何億年前に、ああなったのかです。しかもその光というものがです、私の目に映ずると言う事がです、私の目に映ると言う事がです、もう何千年も何万年も前に光った光が、今私の目に映ずると言う事なんですね。学問的に言うと。大した事じゃないですか。してみると私の祈りと言う事に神様が答えて下さると言う事。もう私の願う事をです何億年前に、天地はご承知であったと言う事。
 その時のご返事を何億年前に、用意してござったと言う事。勝彦大した事じゃないかと。私共の(  ? )生きたとか死んだとか、あぁあったのこうあったのと言うけれども、その事一切が神様のご節理のままに、あぁあってこうあっておるのであるから、無用なものにでも神様のご都合に違いはないと言う事が、言えるじゃないかと。そういう様にです私共の、例えば祈りとか思いとか。
 しかもそれが天地に通うような、祈りであり思いであるならばです、そういう不可思議極まる、働きにつながっておると言う事。そこで私が一番初めに言う様に、お互いの祈りが、又は信心の内容がです、ね、そういう天地につながる様な、祈りでなからなければいけんじゃないか、折角させて頂く修行ならば、そういう神様の思いに、通うような修行でなからにゃいけんじゃないかと。
 ただ自分の我情我欲を満たすためのですか、いっぱいのですかどうぞこの為にです、私一心ののために、こういう修行をしますと言う様な修行それは、どのように華々しい、例えば修行であっても大した事なかろう、天地につながる様なって言う事は、天地に通うような天地が喜んで下さる様な、天地が感動して、ね、天地を自由にして下さるような、おかげ。昨日総代関係の、総代その関係の方たちの皆、建築の方を承っておられる方たちが、ほとんど集まられてから。
 昨日あちらでの縄張りが御座いました。それであちらでいろいろ、殆ど済んでしもうてから、右にするか左にするか、その意見が二つに対立した。だからんならご神意を伺うてから決めようじゃないか、というので委員長がここにお伺いに来た。先生あなたもぜひちょっと来て頂かにゃいけません、てそしてあの言わば職人さん達のしきたりやなんかもあってから、それと御神酒を一献上げにゃいけんから。
 ですから親先生来てください。はい行きましょうっちいって丁度私が、午後のもう下がる時間で御座いましたから、すぐ着替えてから参りました。参ってですね、あの車に乗った途端あの夕立でした。さね私あちらの小屋の方行きましたけれども、小屋に入られんのです。もうとにかくですね小屋がこう、中にようやく入らせて頂いてから、立たせていただいとったら、前の大きなガラスが、バーっと割れてしまいました。
 どうした事だろう。私が外へでると、言う時には曇っても、言わば照る。曇っても降らん、という様なおかげを頂いて来たにも関わらず、とは反対にです、私が出掛けようとしたら、雨があり、しかも風があり、その中にこう、お叱りを頂いておるように雷鳴である、雷さんである。身の縮むような思いが致します。私は暫くあの小屋で、そのことを御祈念させて頂いた。
 様々な事に、例えばああやって一応は出来た、基礎を初めから今度はやり直さなければならないというのであるから、成程神様がですね、言わばお祓いを、このあの風で祓うて下さった。あの雨で清めて下さった。その中にも何とはなしに厳しいお叱りを受けておる一同の者がです、私を始め受けておるという感じであった。いわゆる天地との繋がりと言うことです。いかに神様がです、もうほんとに心を広うごとなさろうとしておるか、ということが分かるじゃないですか。神の広前としてのです。
 御造営であらなければならん事を、神様が願っておられると言う様な事が、そんな事からでも感じられるじゃないですか。ね、なるほど神様がこの塀も門も、中心にある御広前もだけれども、その御広前から、(  ?  )、その石庭の例えばの石一つ置く配置においてもです、天地書付を思わせるような感じで下さろうとしておる、神様のお心を私どものお心としなければいけない。
 その事のためにそういう願い、そういう神の願いに答える為の私共の信心修行がです、それほどささやかではありましても、今日一日のこのささやかな修行を、その事のために心ごと向けさせて頂くと言う様な信心こそ、私本当の信心と言うのではなかろうかとこう思うのです。皆も人相と言うですかね。お多福さんの様な人もありゃ、夜叉の様な顔しとる人もあるね、かと言うと又はひょっとこの様な顔をしておる人もある。
 夜叉、お多福さん。ね、ですからそのお互いが銘々の人相を持っているのですから、ね、もうニコニコしよらんでん、いつもニコニコして御座るごたるふうな人もあるでしょうが。あの人はいつ見ても笑いござるごたるばってん、心では腹立てござると言う人がある。もう顔がそげんニコニコしたごたるに出来て御座るとじゃん。していっつもその芋虫噛み潰したごとしてござるばってん、心はとっても優しい人だ、という人があるでしょうが。だからそれはなかなか、一概には言えないにいたしましてもです。
 「生神金光大神天地金の神一心に願えおかげは和賀心にあり」と、もう今日一日ですね、心にいつも和らぎ、喜ぶ心を頂かせて頂く事に焦点を置いて、私共のこの椛目がです、和らぎ喜ぶ心の椛目に向かっておるかどうかということだけに、焦点を置いて修行させて頂いたらどうでしょうか。しかもその焦点がその修行がです、ただ今申します様な、御造営、神ながらな御造営成就のことの為につながる修行と言った様な事になったら、ま一挙両得ということになる。
 私がふっと思うたこと、私が今日ここで今皆さんに御理解を伝えさせていただく事、ね、それが、もし、天地にです、通うておっての、このご理解であり、み教えであるならばです、皆さんが私の言うておる、話しておる事を、皆さんが行じなさる事はそのまま、天地に通うことである、と言うことです。しかもただ通うだけではなくてです、喜びを持って通うと言う様なおかげを頂く為にです。
 今日一日自分の心の人相に一つ、心を使わせて頂きたいとこう、私は今朝から思うておる。皆さんもそういう所にです、ね。顔はしょうがないから、ね、顔が悪い方が大和撫子みたいな顔にしようと思ったって、できる事じゃなかでしょうが。ね(林  )ごたるふうな顔にしようっちしても、そのそう言う訳にはいかんのだ。けれども心はいつもです、和らぎ喜ぶ心であるという、そこに、あるかどうかという事を確かめながらの一日であるということ。それを修行にさせて頂くと言う事。ね、
 椛目はそん時見て御覧なさい、成程こげな顔じゃあるけれども、お多福三の様な顔じゃあるけれども、ひょっとこの様な顔じゃあるけれども、何とはなしに私はそこから生まれてくる雰囲気と言うものは、有難いものじゃあろうと私は思うんです。今日は後先の事を沢山申しましたがです、ね、ただそれだけの事を皆さんに、今日は実行して頂きたいと思うて後先の事を申しました。ね、そういう今日はお互い修行をさせて頂きたいと思う。
   おかげをいただかねばなりません。